「今」をしっかりと生きたい。
誰もがそのように願います。しかし、一方でそう生きられなくなる事態が次々と起こります。老い、病い、自然災害、大切な人との別れ、憎しみや怒り・・・。できれば避けて通りたいことばかりです。お釈迦さま(釈尊)はまさにこの様々な苦しみに向き合い、「なぜ人は苦しむのか」とその原因を探究しました。そしてどんな人でも、どんな状況でも、苦しみを超えて「今」をしっかり生きられる道はないのか?と求めました。
私たちが生きる依り所としているもの、それを「宗」といいます。根本、中心となるものという意味です。自分が中心であれば「自分宗」、経済が中心であれば「金宗」、社会での出世が中心であれば「地位宗」ということになるでしょう。私はいったい何を頼りとしているでしょうか。それはほんとうに大切なことでしょうか。どんなときも私を支えるものでしょうか。
私たちは、ほんとうに大切でないことを大切なこととして、頼りにならないものを頼りとして、こだわっています。そして頼りにならないものは当然崩れますから、悩むべくして悩んでいるのです。それなのに、「なんでこんなことになるんだ」といって愚痴をいっています。
仏教では、今自分が依り所としていることは、ほんとうに大切なことか、様々なことを乗り越える力となるかということを問いなおします。私たちは「なぜ自分は苦しんでいるのか」「なぜ力が出ないのか」というその原因を外に見ます。そして「あれが悪い」「もっとこうだったら」といって、いつまでも落ち着きません。しかし仏教は内に、つまり「自分自身のあり方」を問います。そして、本当に力強く生き抜く、頼りとなる依り所は何か、ほんとうの「宗」はなにか、ということを学ぶのが仏教です。そして確かな立脚地を安心して歩むということが目的です。ですから、仏教とは、「自分自身を学ぶ」そして「生き方を学ぶ」ものであるということができるでしょう。
次回から数回にわたり、仏教とは何を問題にしているのか、ということをお釈迦様(釈尊)の生涯を追いながら、もう少し突っ込んで見ていきたいと思います。
(次回 釈尊の生涯に学ぶ(2)—釈尊の誕生)
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