お盆とは「盂蘭盆(*1)会(うらぼんえ)」といい『仏説盂蘭盆経』というお経に説かれている釈尊(お釈迦さま)の弟子である目連(もくれん)尊者の物語に由来するものです。そこでもう一度『仏説盂蘭盆経』の原文(*2)に立ち返って、お盆について考えてみたいと思います。まず内容を以下にまとめてみます(原文は文末に掲載しています)。
(註)--------------
(*1)「盂蘭盆」の意味
よく、ウランバナ(ullambana)というサンスクリット語からきており「倒懸(逆さ吊り)」の意味だ、という解説がなされます。これは玄応という人が書いた『一切経音義』(650年)に基づいています。しかし『仏説盂蘭盆経』の原文を読めばわかりますが「倒懸」では全く意味が通じません。「多くの飲食を用意して盂蘭盆中において・・・」とありますので、やはり「お盆」の意味でしか解釈できなそうです。最近の研究では「盂蘭」+「盆」であり、「盂蘭」とはパーリ語のオーダナ(odana米飯)の意味であると指摘されています(辛嶋静志「『盂蘭盆』の本当の意味」)。
しかし、大事なことはこの物語にどのような意味があり、どう受けとめるかということです。「倒懸」は間違いだ、米飯の盆だ、という間違い探しに気を取られて、大事なことを忘れてはいけません。
(*2)
経典はもともとインドで成立したものであり、パーリ語やサンスクリット語などの古代のインドの言葉で書かれています。したがって漢文で書かれたものは、あくまでそれらインドのものの翻訳です。したがって、原文というと本来は古代のインドの言葉で書かれたものと言うことになります。しかしこの経典にはそのようなものが残っていません。そして内容からも中国で作られた偽経であると言われてきました。一方、上記の辛嶋先生は最近の研究で偽経ではないと結論づけています。
しかし、どこで成立したにせよ、その経典が大事にされ、伝えられてきたという歴史そのものに、本物も偽物もありません。大事に伝えられてきたという事実があるだけです。そのことに目を向けず、偽経だから意味がない、本物だから大切だ、というのは歴史を無視した見方ではないでしょうか。
(*2)
経典はもともとインドで成立したものであり、パーリ語やサンスクリット語などの古代のインドの言葉で書かれています。したがって漢文で書かれたものは、あくまでそれらインドのものの翻訳です。したがって、原文というと本来は古代のインドの言葉で書かれたものと言うことになります。しかしこの経典にはそのようなものが残っていません。そして内容からも中国で作られた偽経であると言われてきました。一方、上記の辛嶋先生は最近の研究で偽経ではないと結論づけています。
しかし、どこで成立したにせよ、その経典が大事にされ、伝えられてきたという歴史そのものに、本物も偽物もありません。大事に伝えられてきたという事実があるだけです。そのことに目を向けず、偽経だから意味がない、本物だから大切だ、というのは歴史を無視した見方ではないでしょうか。
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仏説盂蘭盆経の概略
目連尊者は初めて六神通(六種類の自由自在な能力)を得たとき、今は亡き父母の恩に報いたいと思いました。そこで天眼通(六神通のうちの一つ)によって探したところ、母が「餓鬼」の世界におり、飲食をとれず骨と皮の状態でした。そのことを目連尊者は悲しみ、鉢にご飯を盛って母のもとへ運びます。しかし母は食べようとしますが、口に入れる前に火に変わり炭となってしまい、食べることができないのです。
目連尊者は大いに悲しんで、釈尊のもとを尋ねます。するとこのように教えられます。「あなた一人ではどうすることもできない。雨安居(雨期の間、聞法し修行をする会)の最後の日に、飲食をお盆に入れて、十方から安居に参加するためにあつまった僧侶たちに施しなさい。この日すべての僧侶が同じ一つの心でご飯をいただけば、道を求める者たちの徳は大きいでしょう。」一方、釈尊は十方から集まった僧侶たちには、このように言います。「施主のために仏の加護をいのり、七世の父母を願い、禅を行じ心を定めて、それから飲食をしなさい。初めていただくときは、仏塔の前で皆で仏の加護をいのり、それからいただくのです。」そうして目連や集まった僧侶たちは皆大いに歓喜して、目連の悲しみ泣く声はいつしか消えていきました・・・。
「餓鬼」の世界
一体この物語は私たちに何を伝えているのでしょうか。まず「餓鬼」(preta)とは仏教の世界観である「六道」(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)のうちの一つです。「餓鬼」の世界とは、「常に飢えているもの」の世界です。問題は、目連尊者が「母が餓鬼の世界に落ちている」と見た意味です。つまり、実際にそんな世界があってそれを見たというよりは、これを目連尊者の心の現れと見て、なぜそのように見たのか?なぜそのような物語となったのか?と考えなければ問題がはっきりしないように思うのです。
誰もがもつ「餓鬼性」
「餓鬼」の世界というのは何も特別な世界ではありません。いつも現状に満足できずに不満ばかりで、「もっとよくありたい」「思うがままにしたい」という欲に追われて周りのものを求め、欲しいものを手に入れてもそれで満足できず、さらに別のものが欲しくなるという、絶えることのないむさぼりの心に支配されるような私たちのあり方そのものです。限りなく広く長くつながって、今の私に届けられたいのちをそのままに喜べず、自分の思いで何かを付け加えないと満足できないのです。そして思ったものが得られないことに悩むのです。つまりよりよく楽しくありたいと思っているはずの心が、逆に苦悩の原因になっているのです。
それは目連尊者の母とて例外ではありません。どんな優しい母であっても、いやむしろ優しいからこそ、我が子を守るために、むさぼってでも手に入れなければならないことがあります。それは時にとなりの子を蹴落とすことにもなるでしょう。そうやって息子である目連尊者の今があるのです。目連尊者はそのような人間が誰しも持っている「餓鬼性」に気づかれたのではないでしょうか。いのちをつなぐものともなり、苦悩や悲しい争いの原因ともなる、そんな矛盾をはらんだ人間のあり方です。
ほんとうの供養
そこで目連尊者は母を満たすために、食べ物でもって供養しようとします。しかし、そんなことをして何になるでしょうか。母の「餓鬼性」をなくすことはできません。そして母の「餓鬼性」を見せかけの善行でもって滅しようとする目連尊者は、自分自身の「餓鬼性」に気がついていません。「餓鬼」が「餓鬼」に何を施すのでしょうか。そのことを釈尊は見抜かれていたのでしょう。仏法を聞くことで、自分自身の「餓鬼性」に気がつくように願ったのです。自分の「餓鬼性」を見つめ直し、他人の「餓鬼性」を許し、互いの「餓鬼性」を語り合い、人間のいのちのあり方をあきらかにしてゆく。これは「あなた一人ではどうすることもできない」ことであり、僧侶の集まり(僧伽)の中で仏法を聞き、語り合い、己を静かに見つめ悲しむ中で、初めて自分のほんとうのあり方が照らし出されたのです。「同じ一つの心で」とありましたが、個々の問題は様々であっても、人間として生まれた喜びと悲しみを見つめるという点で一つの心であり、そういう問題に向き合っていく僧伽のあり方を表しているのではないでしょうか。
そうして、「七世の父母」と表されるような、先祖から限りなく広く長くつながって今ここにある、いのちのほんとうの姿に目連尊者は気がつき、それをそのままにいただくことができたのです。それはまた、「ほんとうのいのちの姿に気づいてほしい」という亡き母の願いが、餓鬼の姿を通じて届いたとも言えるのではないでしょうか。
私たちへのメッセージ
この盂蘭盆の物語は、私たちが先祖に供養するといったときのあり方を問うているのではないでしょうか。まさに初めの目連尊者のように、苦しみ傷つけあう世界を自ら作り出すような自分のあり方を確かめもせず、そしてほんとうのいのちのすがたを見ようともせずに、何か「良いことをしている」つもりになって、亡き人のいのちを供養することなどできるでしょうか。亡き人の声なき声に耳を傾け、法に出遇い、いのちに出遇うことがほんとうの意味での供養となるのではないでしょうか。
お盆という行事は長い歴史の中で様々な脚色がついていますが、迷信に惑わされずに、いただいたいのちを喜び、限りないいのちの願いが私の上に報われたことを謝するという「報謝」の歩みの一歩としたいものです。
<参考>仏説盂蘭盆経の原文[T.685.16.779a26-779c23]
佛説盂蘭盆經
西晋月氏三藏竺法護譯
聞如是。一時佛在舍衞國祇樹給孤獨園。大目乾連始得六通。欲度父母報乳哺之恩。即以道眼觀視世間。見其亡母生餓鬼中。不見飮食皮骨連立。目連悲哀。即鉢盛飯往餉其母。母得鉢飯。便以左手障飯右手摶飯食未入口化成火炭。遂不得食。目連大叫悲號啼泣。馳還白佛。具陳如此佛言。汝母罪根深結。非汝一人力所奈何。汝雖孝順聲動天地。天神地神邪魔外道。道士四天王神。亦不能奈何。當須十方衆僧威神之力。乃得解脱吾今當爲汝説救濟之法。令一切難皆離憂苦罪障消除。佛告目蓮。十方衆僧於七月十五日僧自恣時。當爲七世父母。及現在父母厄難中者。具飯百味五果汲灌盆器。香油錠燭床敷臥具。盡世甘美以著盆中。供養十方大徳衆僧。當此之日。一切聖衆或在山間禪定或得四道果。或樹下經行。或六通自在教化聲聞縁覺。或十地菩薩大人權現比丘。在大衆中皆同一心受鉢和羅飯。具清淨戒聖衆之道其徳汪洋。其有供養此等自恣僧者。現在父母七世父母六種親屬。得出三途之苦。應時解脱衣食自然。若復有人父母現在者福樂百年。若已亡七世父母生天。自在化生入天華光。受無量快樂時佛勅十方衆僧。皆先爲施主家呪願。七世父母。行禪定意然後受食。初受盆時。先安在佛塔前。衆僧呪願竟。便自受食爾時目連比丘及此大會大菩薩衆。皆大歡喜。而目連悲啼泣聲釋然除滅。是時目連其母。即於是日得脱一劫餓鬼之苦爾時目連復白佛言。弟子所生父母。得蒙三寶功徳之力。衆僧威神之力故。若未來世一切佛弟子。行孝順者亦應奉此盂蘭盆。救度現在父母乃至七世父母。爲可爾不佛言。大善快問。我正欲説。汝今復問。善男子。若有比丘比丘尼。國王太子王子大臣宰相。三公百官萬民庶人。行孝慈者。皆應爲所生現在父母。過去七世父母。於七月十五日。佛歡喜日。僧自恣日。以百味飮食安盂蘭盆中。施十方自恣僧。乞願便使現在父母壽命百年無病。無一切苦惱之患。乃至七世父母離餓鬼苦。得生天人中福樂無極佛告諸善男子善女人是佛弟子修孝順者。應念念中常憶父母供養乃至七世父母。年年七月十五日。常以孝順慈憶所生父母。乃至七世父母爲作盂蘭盆施佛及僧。以報父母長養慈愛之恩。若一切佛弟子。應當奉持是法爾時目連比丘。四輩弟子。聞佛所説歡喜奉行
佛説盂蘭盆經
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